ゼロからのアメリカ移住 ー 全てを失くして這い上がった男の「サバイブ論」

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この記事の所要時間: 1548

這い上がるために起業

中島さん:それと同時に色んなオーディションを受けて、演奏の仕事も同時にやってたんですが、レストランの仕事だけやってるとその後のキャリアについて考えるじゃないですか?

ここで10年頑張れば、10年後にはお寿司屋さんになれるかもしれないけど、自分はそのためにアメリカに来たんだっけと思ったり。

とはいえ英語も喋れないし、どうやったらこのアメリカ社会で浮き上がれるのかとずっと考えてたんです。そしたら、もうリスクを取って自分で起業するしかないなと。

編集部:それ以外に道がないと。

中島さん:そうです。当時、本当に英語ができなくて、求人広告すら読めないし、当然英文の履歴書なんて書けもしないので応募すらできなかったんです(笑)

だけど、状況がしんどいからといって愚痴ってもしょうがない。それなら自分でオープンリスクで起業にチャレンジしようと思い、野菜を刻んでいる時も起業アイデアをずっと考えていたんです。

編集部:どんなビジネスをやったんですか?

中島さん:初めは当時流行っていた個人輸入代行で卸をやろうと思ったのですが、元締の会社が直販で物を売れるようなECサイトを作った方が良いんじゃないかと思い至ったんです。

ちょうど日本のプロバイダー時代のプログラマーの同僚が独立していたので、「俺がアメリカの案件を取ってくるから一緒にやらないか」と話を持ちかけて一緒にやることになり、個人事業主を3-4人抱えて、ウェブサイトや社内システムを作ったりしましたね。

編集部:それはうまくいったんですか?

中島さん:いえ、2年くらい続けたんですが、値付けやマージンのこともよく分かっていなくて、そのあたりもさじ加減でやっていたので…(笑)

あと、当時は日本の中小企業からアメリカ法人を設立したいという需要が多かったので、その設立代行をする会社も作ったんです。

ただ、当時自分が26-27歳で、顧客の社長さんがかなりの年配で、自分にはその人たちと対峙するだけの体力も人間力もないということで、負けてしまって会社を畳みました。

そしてもうシリコンバレーにはいられないなと思い、荷物をまとめて機材を車に積み込んで、単身でラスベガスに行くことにしたんです。

志半ば単身ラスベガスへ

編集部:また、なぜラスベガスだったんですか?

中島さん:ラスベガスならホテルのカジノやクラブでライブの仕事がいっぱいあるんじゃないかと思い行ったんですが、行くのが15年遅かったみたいで全部DJに変わってましたね。

なので、Musicians Unionという組合に入り、ミュージシャンの電話番号や住所が載っている名簿をもらって「ベースの仕事はないか」と片っ端から電話したんですが、案の定まったく仕事がなくて。

ある日、あるピアニストから「話を聞いてあげるからおいで」と言われ、待ち合わせ場所に行ってみたら作業着を着た彼から「演奏の仕事は本当にないんだ。だから俺もこの倉庫で仕事してなんとか食えてるけど、今ベガスで一番トップのベーシストも昼間は不動産屋だぜ」と言われて…

編集部:それは衝撃の事実ですね…

中島さん:かなりショックでしたね。なので、コンベンションセンターやフェスに来ている日本人に(アメリカでは合法な)怪しい大人向けのDVDを売ったりしながら何とか生き延びました。

編集部:怪しいDVDですか…?

中島さん:パッケージを日本のアニメとかにリラップして、真空パックしてあげたやつとかね(笑)

編集部:あ、察しました(笑)

中島さん:その他には映像制作の仕事の手伝いで食いつないでいました。その時お世話になったのが大恩人の中井クニヒコさん(現在はホノルルにて射撃ツアー会社マークワンを経営)という方で、その人生観やエピソードが凄まじくて、ずっと自分のロールモデルでもある方なんです。

中井さんは僕が永住権に当選した2002年頃にインターネット上でアメリカ移住に関するコラムを書かれていて、当時はネットにそういった情報がなかったので貴重な情報源でしたし、すごく勇気付けられたんですよね。

なので、ラスベガスに移住後に感謝も込めて連絡してみたら、「遊びにおいで」と誘ってくれて、気付けば仕事も手伝わせてくれて生き延びることができたんです。

編集部:そういう意味では大恩人ですね!

中島さん:その他にも小さな演奏の仕事はいくつかあったんですが、ただ色々あって結果的に半年くらいでシリコンバレーに戻ってきました。

ベーシストとして様々なライブに出演

突然の解雇、研ぎ師という選択

編集部:なぜまたシリコンバレーに戻ってきたんですか?

中島さん:前の奥さんに「この生活がこれ以上続くんだったら離婚します」と言われたんですよね。

編集部:あ、奥さんはシリコンバレーにいたんですか?

中島さん:そうですね。彼女はちゃんとコツコツと働いて暮らしていたので、僕みたいにわけのわからない生活はしたくないとシリコンバレーに残っていたんです。なので、「じゃあシリコンバレーに戻ります」と。

編集部:でも、また仕事は振り出しに戻ったわけですよね?

中島さん:ただ、ずっとお世話になっていたサンフランシスコ州立大学の教授が、表情分析による心理学を元にした大学発のスタートアップを立ち上げていて、そのアシスタントとして僕に声をかけてくれたんです。

その教授はポール・エクマンという有名な心理学者の一番弟子にあたる方なんですが、ポール・エクマンがモデルとなった『Lie to Me』がFOXでドラマ化されて、その中では僕がPhotoshopで加工した色んな顔の表情のマテリアルが使われたりもしたんですよね。

2009年から2011年にFOXでテレビ放映された『Lie to Me

編集部:少しずつ流れに乗ってきましたね!

中島さん:「こういう風に使われるんだな」という感じで、そこでは1年半ほど働いたのですが…

編集部:ですが…?

中島さん:僕も若かったので慢心してしまい、横柄な口の利き方を社内でしていたんだと思います。ある日、同僚の女性と口論になり、女性曰く僕がひどい言葉を言った、と。それが問題になってしまい解雇されました。。。

編集部:え、解雇ですか!?

中島さん:問題が起きて1週間くらい経ったある日、いつも通り会社に行ったら、顧問弁護士とマネージャーが全員いて、解雇通知を渡され、Release Agreementを読まされ、サインをする事になりました。。。やっとまともな仕事に就けたと思っていただけに、突如(実質)クビになってしまいすごくショックでしたね。

編集部:なんだかドラマみたいな展開になってきましたね。クビになった後はどうされたんですか?

中島さん:そこからは刃物を研いで暮らしてました。

編集部:え、研ぎ師ですか??

中島さん:別に研ぎ師になろうと思ったわけではないんですが、普通だったら就職活動して次の仕事に就けばいいのに、世の中の何もかもが嫌になってしまい、就職活動する気さえ起きなかったんです。

そんなときに刊行誌で刃物屋さんの求人を見つけて、それが当時住んでいた家の近くだったこともあり働くことにしたんです。ただ、時給8ドルくらいだったので、年間所得2万ドル(およそ200万円)もなかったと思います。

編集部:それ、家計は大丈夫だったんですか?

中島さん:当時の奥さんは自分が何をやっていようがずっとコツコツと働いてくれていたので、家計はなんとかなってましたね。

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