ゼロからのアメリカ移住 ー 全てを失くして這い上がった男の「サバイブ論」

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この記事の所要時間: 1548

人種のるつぼと言われるアメリカには、その多様性を促進するシステムがある。その一つが永住権(グリーンカード)の抽選プログラムだ。

アメリカンドリームを夢見て、毎年相当数の人が応募しているが、10年応募しても当たらないということもザラである。

そんな中、2001年NYで起きた9.11同時多発テロ後に応募し、一発でグリーンカードを手にし、英語力ゼロ・人脈ゼロという何もない状態から這い上がった男がいる。

Fujisoft America』でCOO兼CFOを務める中島恒久さんだ。今日は中島さんに、現在の仕事のみならず、「ゼロからアメリカで這い上がる方法」についてお伺いした。

▼本記事の内容 [全5ページ]
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[#1] エンジニアリング以外全てが仕事
[#2] 9.11後にグリーンカードに当選する
[#3] 這い上がるために起業
[#4] 仕事・家族・家…全てを失う
[#5] アメリカ移住での学び / 現実が正解
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中島 恒久 (Nakajima Tsunehisa)
1978年静岡生まれ。グリーンカード (永住権) 抽選プログラムで当選し、2004年に渡米。寿司屋の下働き、起業、大学発のスタートアップ、刃物の研ぎ師、旅行会社の営業職、食品卸会社のマネージャーなど多彩なキャリアを経て、2015年Fujisoft Americaにジョイン。2017年11月より、COO兼CFOを務める。プロミュージシャンとしてジャズベースの演奏をライフワークとしている。

エンジニアリング以外全てが仕事

編集部:さっそくですが、現在はどんなことをされているんですか?

中島さん:Fujisoft Americaは、親会社の富士ソフトが2015年にシリコンバレーに作った会社なのですが、こちらでは主に通信デバイスの評価業務やソリューション開発業務を行ってます。

また、最近だとこちらのスタートアップのリサーチをしたり、コミュニケーションロボットのアメリカ展開を試みたりもしてますね。

編集部:幅広くやられているんですね。

中島さん:特にソリューション開発業務では、2017年にkintoneさんと正式にセールスパートナー契約を結んで、今ではそれがソリューション部門の一番のコアになっているので、kintoneさんには大感謝です!

編集部:それはどういう経緯でパートナー契約を組むことになったんですか?

中島さん:実は最初は僕個人がkintone USのメンバーと仲良くなり、1ユーザーとしてkintoneを使い始めたんです。その後、kintoneをどんどん好きになり、色々な方に紹介をしていく内にサイボウズの方からアメリカ初のエバンジェリストになりませんか?と声をかけて頂いたんです。

そしてエバンジェリストとしてイベントなどをやっていたんですが、そういった活動をkintone USの山田社長にも認めて頂き、サイボウズの青野社長にお会いする機会も頂き、最終的に会社間の繋がりになったんです。

オフィスに貼られたkintoneのポスター

編集部:すごい!個人の繋がりを会社のソリューション部門に繋げたんですね。

中島さん:また、COO兼CFOとしての普段の業務は、営業、人事、財務、経理、会計などエンジニアリング以外のこと全部ですね。

編集部:エンジニアリング以外のこと全部だと時間的に大変じゃないですか?

中島さん:もう間違いなく大変です(笑) ただ、昔からビジネスの立ち上げや立て直しをやってきているので、そういったオペレーションには慣れてますし、すごくやりがいも感じてます。

編集部:ちなみに、効率的にオペレーションを回すコツはあるんですか?

中島さん:そこは日々試行錯誤してますね。特にうちのような新しい会社では、日々色んなことが変わっていくので、決まった仕事の流れやパターンもないんですよ。なので、今はまさにそこが課題です。

今までは良くも悪くも私一人が全部やっている個人商店のような感じだったのですが、それだと属人的すぎてスケールしないので、今後はチーム力を上げていきたいです。

編集部:チームとしてパフォーマンスを上げていくと。

中島さん:2018年の目標は「親会社に依存せず独立採算がとれるようになる」という少し目先のことだったので、今後は「どのようなミッションのもとビジネスを行っていくのか」という使命感や長期的な目標をチームに共有・浸透して、チーム力を上げていければと思っています。

富士ソフトが開発・市販する会話ロボット(PALRO

バリューを発揮しCOOに

編集部:ちなみに、元々はCOOではなかったとお聞きしましたが、どのようにCOOになられたのですか?

中島さん:最初はオフィスマネージャーとして入って、気が付いたら上にあがっていた感じです。実は、始めは社内の人にも日系SIerのアメリカでのビジネス展開は懐疑的に思われていたので、結果を出して見返してやろうという思いがありひたすら頑張ったという感じですね。

編集部:具体的にどのようなことを意識したのですか?

中島さん:当時は言うなれば武器も兵糧もお金もない状況でのサバイバルだったんです。なので、まずはシリコンバレーで「武器を持っている人」と接して、なぜこの人は武器を手に入れられたのかを知るところから始めました。

あと、日々の仕事はオフィス周りだけだったので比較的楽だったんですが、それだけに甘んじていると、自分も組織も次のフェーズに行けないと思ったので、朝9時から夜6時まではオフィスの仕事をして、夜6時以降と週末はネットワーキングと営業活動をやったんです。

オフィスが入っている建物の外観

編集部:それがエバンジェリストの活動などですね。

中島さん:そういったことを地道にやっていると、結果的に心意気を感じてくれたお客様やパートナー様が「一緒にやってみよう」と言ってくれるようになったんです。

そして、そのもらったチャンスに最大限の努力で答えて、会社も僕も一緒に少しずつ大きくなっていったんです。そして責任を負う立場の人が必要になったときに声がかかり、2017年11月からCOOになりました。

編集部:できるところから一歩ずつ積み上げていったと。

バンド活動に打ち込んだ学生時代

編集部:過去の話に移りたいのですが、そもそも学生時代はどんな生活を送っていたんですか?

中島さん:高校生の時から音楽でプロになろうと思っていたので、ずっと楽器の練習やライブばかりやってましたね。なので受験勉強もまともにやらず、大学時代もバンド十何個かを掛け持ちしていて、ほとんど学校にも行ってなかったです。

そして色んなジャズのライブを見ている中で、のちに師匠となる水野正敏氏のライブを見て、「この人の弟子になってプロの道に入ろう」と思い、大学を2年で辞めました。

編集部:え、辞めたんですか?

中島さん:辞めて弟子入りしました。学生の中では「うまいね」とか「すごいね」と言われていたんですが、学生の中でうまいだけでもしょうがないと思っていたので…

師匠である水野正敏氏と(2016年東京にて)

幸いにも弟子入りして1年ほどで仕事がもらえるようになり、東京、大阪、静岡の色んなジャズクラブやライブなどで弾いてましたね。

当時は静岡から東京まで通い弟子をやっていたんですが、そんな生活を2年くらい続けたタイミングで、師匠から「東京に出ておいで」と誘われ、2000年に上京したんです。

編集部:では、東京に上京してからはプロとして本格的に活動していったわけですね。

中島さん:ただ、上京しても音楽だけでは食べていけなかったので、住み込みで新聞配達などもしてましたね。

その後、当時ADSLのブロードバンドが立ち上がったばかりだったので、PCのことは全くわかりませんでしたが、喋りがうまいということでそのサポートセンターの仕事を見つけ、そこで働きながら夜はライブ活動という生活を2001年から3年間くらい続けてました。

編集部:音楽の世界はプロでも厳しいんですね。

都内のジャズクラブで演奏していた時の一コマ

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